風一途

先日のライブではお話しさせていただいたのですが、

私事ですが、

母が、旅立ちました。

 7月17日午前10時30分、ゆっくりゆっくり階段を降りていくように、少しづつ呼吸の回数が減って行き、最期の一息を吐き終わると、安らかな顔で私と姉、2人の子供たちに手を握られながら、旅立ちました。

 最期の10日間は、食事も水も受け付けず、長野の愛和病院という緩和ケアの病院にいて、生前言っていたように、点滴や、心電計や、いろんな管につながれることなく、苦痛だけを取り除いて、母の望み通り、自然な状態を最期まで保ちました。

 「真澄がこっちで幸せに暮らしとるていうとがわかったけん、ほんとにきてよかった。」と繰り返していた母。昨年の秋から、姉の嫁ぎ先の栂池高原の宿に移住していました。

 そこで、冬の忙しいシーズンを宿で働きながら過ごました。本当に充実した日々だったと思います。

 母が亡くなる4日前、これも偶然ではないのでしょう、姉のいる小谷村の農協さんの婦人部の主催のポストマンライブが開かれました。

 母は、このライブを見に行くのを楽しみにしていたそうです。

 結果として、会場で見ることはかなわなかったのですが、このコンサートがあったおかげで、私は、意識のある母と、最期の言葉を交わすことができました。

 病室で、ライブの手紙を聴いてくれていたんでしょう。ライブが終わり、病室に戻ったとたん、母は、涙を流して、「あんたと、真澄が私の子供でいてくれてほんとに幸せだった。ありがとう。ありがとう。」と、繰り返していました。

 気がついたら、母を抱きしめていました。

 やせ細った母の体は、それでも、子供時代にいつも感じていた母の体でした。

 とたんに、幼い頃の記憶が頭ではなく、血の通った体の体験として蘇りました。

 ぬくもりと、においと、肌触り、母の記憶はすべからくフィジカルな関わりとして僕の中にありました。

 おかあさん。と言った僕の声は、5歳の僕でした。

 いったん熊本に戻り、日を早めて16日に再び長野に入りました。台風で次の17日が欠航だったので、予定通りに行動していたら母の旅立ちに立ち会えないところでしたが、不思議な力が働いているようでした。

 18日が東京でERのライブがあって、そこはどうしても外す訳には行きません。他界に立ち会えない覚悟もしていましたが、それもぜんぶわかっていたように、テキパキとスケジュールを調整し完璧にこなしていた生前の母そのままに、僕らのスケジュールを何も乱すことなく、完璧に旅立って行きました。

 ライブがあったので、ギターを持ってきていました。ベッドの脇で、朝花やみみらく霊歌を演奏し、最後に手紙を歌いました。ギターの音色にも歌にも、どこにも悲しい響きはありませんでした。

 最期の息を吐き終わったあと、心電計もないので、傍らにいた看護師さんに確かめると、脈を診て、うなずかれました。

 姉は、ぼろぼろと涙を流して、いつまでも母の手を握っていました。父のときも母のときも、私の何倍も寄り添い、献身的に看病をしていた姉。病院に泊まり込み、いつもいつも母が辛くないか気遣っていました。さんざんたらい回しにあい、自力でこの愛和病院を見つけました。紹介状も何もないのに、訪ねた当日から入ることができました。姉の熱意のもたらした奇跡でした。

 姉の止まらない涙は、母の人生に手向けられた感謝のこもった宝石のようでした。

 私は’、私が受け入れた生命の話をことあるたびに母に話していました。

 「あんたがいつもいつも言うけん、おじいさんも、おばあさんも、お父さんも待っとらす気のしてきた。」

 「のこもまっとるばい。」

 飼ってた犬。母の大好きだった小さな柴の雑種。

 「お母さん、な~んも心配せんちゃよか。みんな待っとらす。」

 「うん、なんもしんぱいしとらん。」

 「よかった。」

 母の家系は医師が多く、母も含め理系の思考な人がほとんどなので、どうかとおもっていたけれど、ごくごく自然なこととして、聴いていてくれました。

 思い出せば、高校生の時からギターを弾き始め、曲らしきものを作り始めた時も、聴かせていたのは母だけでした。全く自信がなかったのと、恥ずかしくて人前で歌うなんてできなかったからです。

 和文タイプの内職をしながら、聴くともなく聴いていた母、そのスタンスが当時の僕にはちょうど良くありがたかったのです。

 自分の一番深いところにある考えや、作品を最初に遠慮なくぶつけられたのは考えてみると、母だけだった気がします。

 いつしか、母と私との間では、死してのち、普通に自分が続いて行くことが前提で話をするようになりました。

 お父さんは、お母さんが一番お父さんらしかて思う年齢や姿で迎えにこらすよ。

 そんなら、50歳ぐらいのころかなあ、、

 おじいさんもおばあさんもはじめおじちゃんも仁科さんも、みーんな大騒ぎで、淳子がんばれ、心配すんなていいよらすどね。

 はじめおじちゃんが、張り切ってみんなば集めよるところが目に浮かぶね。

 2人で笑った。

 その気持ちは母が旅立つ瞬間も変わらなかった。私は肉体からの離脱がスムーズに行くことだけを願い祈っていた。

 それに一生懸命で、悲しむ余裕がなかった。

 義理の兄さえも涙を流している状況で、私だけがケロッとしている。

 (俺は冷たい人間なんだ)と思った。

 いくら死は新たな生への解放だと信じていても、肉親の、それも実の母親の死は、そんな理屈を越えて、感情に訴えるものなはずだ。

 でも、母を思うと、喜びと、輝きのイメージしか浮かんでこない。残された方ではなく、旅立った当人の気持ちに立つと、

満面の笑顔で、喜びに満ちあふれた母の姿しか浮かんでこないのだ。

 私は、悲しむことをあきらめた。

 母がうなずいた気がした。

 次の朝、ライブの当日ホテルの部屋で、母に話しかけた。

 お母さん、そっちは俺の言いよった通りだったね?嘘じゃなかったね?お父さんな迎えにこらしたね?のこは?おじいさん、おばあさんはこらしたね?

、、、、うそならごめん。

 ベッドに腰掛けていた背中がじわじわと温かくなってきた。

 私が知っている最も優しい母の笑顔が浮かんだ。その顔は

 「あんたの言いよった通りだった。ありがとう。」

 とうれしそうにいっていた。

 冷たい私の中の氷が一気に溶けた。

 5歳の幼児のように、泣きじゃくっている自分がいた。

 よかった。

 うれしくてうれしくて

 本当にうれしくて

 泣いた。

 生前の母の苦労に

 大きな大きな

 花が咲いた。

 おかあさん。

 ありがとね。

 幸せに。

 またあおね。

 今日の一曲 

 ふぇん風よ 樋口了一

ひげとおながわ

「樋口さん、早く歌えなくなってよ。」

 

「はっ?」

 

「んでさ、もうだめです、これで最後ですうっ!っとか、ステージの上で宣言してさ、そしたらそれ俺撮るからさ。」

 

「いやだよ!」

 

「そうっ!!そんで宣言したのに、まだしぶとくやろうとしちゃってさ、またステージに上がろうとする往生際の悪いところをさ、、こうダァーッツと撮るわけさ。だからさ、早く歌えなくなってほしいんだよね。」

 

こないだの、女川のイベントの打ち上げでの、私とふじやんとの会話。

 

「そういうこともくろんでんだったら、ぜったいやめてやんねえ。もういいよ、こないでって言って、つぎの祭りのとき俺のスケジュール入ってなくても、無理矢理乱入してやるからな。」

 

「そういうみっともないとこもしっかり撮るんだよ。けたけたけたけた。」

 

と、赤ら顔のひげが笑った。

 

ああ、これか、と合点がいった。

 

大泉君を掛け値なしに追い込んで、ぎりぎりの極限まで怒らせてあの窮鼠猫を嚙む様な奇跡の面白さを引き出してきたディレクションは。

 

ただ、そんな事思ったのはあとになってから。なんてこといいやがんだこいつと、半分切れ気味に、応酬する。

 

白熱した会話の中で感じた。

 

この男に、見てもらっていれば大丈夫だと。

 

ベトナムの最後のシーンで、カブに乗る大泉君の背中にかけた「見てるぞ!」

 

どんな暴言を吐こうと、それが暴言であればあるほど、言葉の後ろに、たっぷり水をたたえた大きな甕の中にある何かを感じる。

 

それが何か、一言では言えない。

 

生きていく事に対する根源的な反骨エネルギーなのか、きれいごとは許さない真に誠実であるためが故の厳しさなのか、面白いものを追求するための残酷なまでの洞察と、それをとらえて離さない握力なのか。

 

それは決して、居心地の悪い水ではない。

 

歌い手に対して「早く歌えなくなってよ」と、言うには、言う側にある覚悟がなければ言えない言葉だ。

 

言葉に込めた思いにぶれが少しでもあるならば、たちまちに伝わるし、第一言わなくてもいいのだからそんな事。わざわざ波風たてるような事。

 

女川でのライブ。最初の海ステージでは声の調子もよく、1/6までしっかり声が出た。

 

夕方の山ステージでは、間を置いた事と、いろんな要因が重なって、声が終わってしまった。

 

それでも、あたりまえだけど、終わった声で歌いきった。

 

「俺さ、後ろから見てて思ったわけよ、ああ、この人本気だなって。」

 

とヒゲ。

 

「本気で歌ってんだってね。そしたらもうさ、みっともなかろうがどうなろうがさ、こっちは撮るしかないじゃん。撮るってなったらこっちも本気じゃん。だから歌えなくなれって言うの。」

 

「だからならねえっての。」

 

「そうそう!けたけたけた。だからそれを撮るって言ってんだ。けたけたけた。」

 

なんだろうこの、みなぎる感じ。

 

「2年前の真駒内の手紙は、ほんとにさ、、、すごかったんだよ。あれは、ほんとうに、、、で、こっちもさ、本気な人に対してきれいごとじゃ申し訳ねえと思ってさ。」

 

ステージで、母ちゃんの事を自分から言い出した目をまっ赤にしたふじやんを思い出した。

 

「じゃあみとどけてくれよ。歌えなくなってもずっとうたうからさ。みっともないとこをさ。ちゃあんと。」

 

「けたけたけたけた。」

 

女川の人たちも、この、暴言にこめられた、目の粗いでっかいタオルでくるまれて、ごしごしこすられてるような、ゆるぎのない、なにか、

 

これにくるまれたくて、

 

毎年彼の言葉を待ち望むのだろう。

 

さけのませろ、うまいもんくわせろ、おんせんいれろ、とっととふっこうしろ、まちがわねえわけねえだろ、まちがえろ、そして、すすめ。

 

見てるぞ!

 

甕の中の揺るぎない何かの正体は、わかってるんだけれど、

 

この言葉は使いたくない。

 

俺は歌い手だから。

 

歌で伝える。

 

 

今日の一曲

LOVE   John Lennon

2015へ

2014年が、行きます。

 

心に浮かんだ泡は、ツイッターで、近況はフェイスブックで、となると、このブログの役割が限定されて来ます。腰を据えて伝えたいこと。そう、そんな気持ちで今年最後の更新してます。

 

今年のスピードは、今までで最速でした。

 

気がついたら、10月ぐらいになってた感じ。

 

中身が濃かったような、無為に過ごしてしまったような、つかみ所のない、一年でした。それはあやふやなのではなく、むしろその逆で、自分が様々な方向へ足を踏み出したからこそ味わう、立ち位置を更新する必要に迫られたことからくるある種の寄る辺なさなのだと思います。

 

樋口了一と言う名前以外で、エンドレスライスとして初めてのCD発売。そのためのレコーディング。そのためのソングライティング。そして、ライブ、インストア、キャンペーン。

 

新鮮でした。

 

自分の音楽への向き合い方が、村上ゆきさんの視点を通じて見えた気がします。命は続いていくんだと、自然にメッセージを送れる同志が表れてくれたことに感謝です。

 

リバプールで、会えた、幼いカブトムシたちの息づかい、まるでそこに生まれ育ったかのような、錯覚が未だ僕の気持ちを郷愁で包みます。

 

シルバーバーチのホームサークルが行われていたロンドンのアパートに、出くわした瞬間の、包まれる感覚、カルデックのパリの墓に、ポストマンライブの旗をかけた時に、自然に流れた涙。

 

全てを持って、2015へ旅します。

 

いつものようにはじまる、

 

 

朝へ向かって、

 

生きましょう。

 

 

今日の一曲 1/6の夢旅人2015

 

行ってきます

局側でとってくれたホテルが、あの場所のすぐ近くだった。

いまから、7年前、私が角智織さんから手紙の日本語訳を初めて見せられた場所。

半分地下に入ってゆく、英語塾の教室。

その時の、全身の血が入れ替わる瞬間が、甦って来ました。

何回も、というか、最近はこれしか言いませんが、命に終りはありません。

私が、このシンプルな答えにたどり着かなかったならば、手紙の言葉に出会うことはありませんでした。

昨日から出演されている、様々な障害や困難、病気を、背負っていらっしゃる方々、その全ての人に向けて、このシンプルで、無限の勇気がわいてくるメッセージが届けられればなと,思います。

やり直せないことなんか一つもない。

何処からでも、新しいスタートが切れる。

そしてそれは肉体から解放された後更に深まり、無限に続いてゆく。

いま泣いている人も、その涙を流した分だけ優しく強くなってゆく。

100%の、誰も置き去りにされない、

ハッピーエンド。

を、

歌って来ます。

今日の一曲

1/6の夢旅人2002

 

やる気じゃ、ヤッ!

20年前、FM北海道で、番組をやることになった。

僕はその時、母が入院していて、付き添いに熊本に戻っていた。

そこから、どうしても打ち合わせに来て欲しいと言うオファー。

正直、心ここに在らずなモードで、飛行機乗り換えて、札幌に着いた。

初対面のディレクター。藤井さん。

で、でかい。やさしいシロクマみたいな風貌。眼のそこにやんちゃな子供がいる感じ。中身は熱い人だなと一目で分かった。

当の藤井さん、私を見て思ったそうだ。

「なんて、やる気のないアーティストなんだろう。こんなタイプ初めて見た。よくやれてるなあ。」

元々、押し出しが弱めなキャラに、心ここに在らずが加味されて、巣穴に隠れたムツゴロウみたいだったんだろう。

しかし、それが、熱血藤井さんに火をつけたのであった。

「こいつを、やる気にさせてみたい。俺の手で。」

という、モチベーションが生まれたそう。

なにが、ぷらすにはたらくかわからないのねえ。

で、始まった番組、めちゃくちゃおもしろかった。

これは、今はやれない、禁じ手をそしらぬ顔して北海道の片隅でやっちゃってる、怖くて言えないような内容のばんぐみでした。2人とも別に平気な顔してやってたなあ。

やる気のないアーティストと,熱血ディレクターは、意気投合しはじめた。

 

半年ぐらい経ってから、藤井さんから電話がかかって来た。

 

「ああ、樋口君?あのさあ、夕方の生一週間やんない?」

 

「ああ、あのゴイスでしたっけ?」

「そう、鈴井さんのやってるやつ、どうでしょうで、ヨーロッパいくから、ピンチヒッター立てなきゃいけなくてさ。」

「どうでしょう、、?」

「ああ、鈴井さんがやってるテレビさ。」

 

「へええ、海外いくんですか。。」

 

で、かるく、ひきうけることになった。

 

後から振り返ると、ここが、私のどうでしょうへ引きずり込まれる、第一歩だった。

 

そんなことなどつゆ知らず、

 

飛行機に乗って、北へ飛んだ私でした。

 

人生のターニングポイントは、僕の場合いつも、ポイントらしくなく、隠れてみえない。

 

いっつも通り過ぎてから、後で気がつく。

 

でも、かんがえてみれば、火曜日の放送中に、国際電話越しに、鈴井さんに曲プレゼントするって言わなかったら、そのまんま、何もなく一週間が過ぎ、僕はそのターニングポイントを通過することもなかった。

 

自分で作るもんなのかもね。転機ジャンクションって。

 

そうやって何かが口を衝いて出る時、いつでも仕事の枠からはみ出てる。事務所通じて正式なオファーが来て、とかいうんじゃなくて、ぽっと思いついたことを口にして、そんで、無償で喜んでやってる。

 

それが、知らぬ間に仕事に通じる。

 

その衝動にブレーキかけるような大人の振りの自分はいらない。

 

しょうがねえなあって、見守ってくれる大人な自分がいればいい。

 

僕の大切な仕事はいつも全部、余計なことに首突っ込んで、何の得になるんだいそれって?と言うところから始まるみたいだ。

 

旅してる奴らをを元気にしたい。

 

っていう最初のきもちが、

 

うみだした1/6が、聴いてくれる皆さんを元気にできてるとしたら。

 

一番最初の衝動の動機が、一番大事なんだと、感じる今日この頃です。

 

ピュアな動機を、持ち続ける、大人でいたい。

 

今日の一曲

セーナ〜僕がカメラマンになった理由〜

下天

50歳になってから、しばらく経った。

太った。

言い訳じゃないけど

YOU TUBE見てたら、ビリージョエルの最新映像があった。

この太り方、完璧だ。

ありがたい。かんじ。

海獣っぽくて、地蔵さんっぽくて、ハーレーが似合いそうで、袈裟も着こなせそうで

かっこいいおじいさんになったなって

おもう。

怒れる若者のあのピアノのイントロは、テンポダウンしたけど、

その分ピアノマンが、円熟の域に達した。

歌い手は、自分の言葉を持てるかどうかが分かれ道。

作詞能力のことじゃない。

誰が作った詩でも、自分の言葉で歌えるか、否か。

どんなに練習しても、これだけは身に付くものではないのかもしれない。

かつて個性的であろうとして、極端に走っていた時代、

コスプレから、ひどい歌詞の歌まで、つくった。

何もない自分が露呈するのが怖かったんだって思う。

ほんとは誰にだって、心の奥底に、大事なギフトがあって、

それは開けられるのを待っている

でも、それは、外側にあって人を押しのけて手に入れなければならないものだと思ってる間は、眼に映らない。

でも、そうやってもがいた時代につけた傷や、後悔や、懺悔が、やっと気づいた心の奥のギフトを、独特の色合いで輝かせる。

それが、歌い手の場合、自分の言葉になるんだろうなって思う。

もちろん、色んなジャンルの音楽に憧れて、まねしてまねして真似しまくった履歴が混然となって、自分歌メソッドの下支えになってくれてる。

両方で、僕の歌になってくれてる。

と言うことは、今まで出会った全ての人が僕の歌を作ってくれてるっていうことなんです。

ひとりでうたってるわけじゃないんです。

一人で歌ってるわけじゃないって気がつくって、心強いことです。

で、このながれ、、、

そう!!

6/1の明後日の、下北シードシップ。

エンドレスライスが、そんな歌をたっぷりお届け致します。

是非お越し下さい。

お待ちしております。

 

今日の一曲

スーベニア ビリージョエル

14番目の月

3月があっちゅう間に行きます。めまぐるしく過ぎる日々、

 

書き留めておくべきことも通り過ぎてゆくままに生きていたら

 

いかん

 

 

かきます。

 

なので新しい記憶から

 

19日20日と熊本キーブ、大分ブリックブロックでのライブ来ていただいた方々ありがとうございました。

 

古澤剛、松尾よういちろう、エンドレスライス。

 

これに熊本は,地元の才能ケンシロウ

 

盛りだくさん、

 

ですが、別腹で食べられる,コース料理。

 

たのしんでいただけたでしょうか、

 

昔は自分のことで精一杯で,他のアーティストに気を回す余裕など無かったんですが、

 

今だって決して余裕があるわけではないのですが、

 

目を見張る瑞々しい才能が目の前で,開花してゆくのをみるのが楽しくてうれしくて仕方が無い。

 

プロ野球のピッチャーが,ホームランを打たれて悔しくなくなって引退を決めたって話を聞くけど、

 

ぼくは、優れた才能が悔しくなくなってからが,ようやくスタートな気がして仕方が無い。

 

自分の歌が,見つかりかけて来たのかもしれない。

 

100%のコンディションが発揮できなくなってようやく,見つかり始めるものがあるんだって、ふしぎですね。

 

その歌探しのパートナー村上ゆきさん。

 

エンドレスライス

 

正直、迷惑かけてる。

 

演奏、うた、淀む途切れる、まちがえる。

 

一糸乱れぬじゃなくて10糸乱れるハーモニー。

 

しかし,あの涼しい顔で、時にしなやかに,時にハードタッチで,ピアノをならす。

 

上空3千メートルから、地面の僕に、コッチそっちと指示をくれる。

 

すると、そこにハーモニーが生まれる。その先に完璧を予感させる14番目の月の不完全さで。

 

聴く人は,みんな地面にいて,僕の引っ張り上げられる高揚感を共有しているんだろうなっておもう。

 

地面でもがく荷物を背負った人々に、一瞬の休息を。

 

と,こんなこと書いてるのに,それと反比例して

 

余りにも下らない。

 

MCですいません。

 

いとよーかどーかどーか。

 

どうか。

 

またきてね。

 

今日の一曲

一ミリのキセキ ER

華岡青洲の妻の爪の垢

私と同じ、パーキンソン病で、富山に住んでいらっしゃる、未来さんから情報をいただきました。

 

ダットスキャン。という検査法。

 

これは、未来さんのブログ。

http://plaza.rakuten.co.jp/angelmoon11015/diary/201402090000/

 

 

ここに詳しいですが、要は、この病の早期発見のための検査方法の確度の高いものが一つ増えた(日本で承認された)ということです。

 

僕は、症状の自覚から、確定までまる2年。15カ所程の病院、治療院を転々とした。

 

若い発症の患者の中では、早い方ではないかと思う。

 

未来さんも、確定まで時間を要された経緯をお持ちで、この早期発見、早期治療開始というのが、これからのこの病気の予後を左右する重要なポイントになってくるようだ。

 

次々と新しいアプローチが試みられているこの病気は、近い将来、発症前の発見と、それを未然に防ぐ方法が確立されるかもしれない。

 

そのためにも、早期発見のための検査法は重要になって来る。

 

華岡青洲の妻と言う、有吉佐和子さんの小説を読んだことがある。

 

華岡青洲は世界で初めての全身麻酔による手術を成功させた実在の人物。

 

そのための自ら実験台となり、失明し、それでもなお夫の医学への情熱の為に献身した、妻の物語。

 

嫁と姑の確執など様々な要因が緯糸として絡んでいるし、創作としての脚色もあっただろうけど

 

凄まじいまでの献身が描いてある。

 

未来さんは、もうパーキンソン病であるということは、検査を待つまでもなく明白な状態で、それでも、DBSという手術を受けた患者の場合どんな検査結果がでるのかというデータを提供するため、この検査を受けられた。

 

自分の持つ荷物で、何の役に立てるか、

 

これは常日頃自分も考える。

 

別に自己犠牲などという大げさなことではなく、あとからやってくる、同じ荷物を運ぶ人が、少しでもその荷が軽くなるようにという気持ちにたどり着くまでには、様々な苦悩と、葛藤、があったことだと思う。

 

乗り越えた瞬間から、また新たな葛藤苦しみが立ちはだかるだろうし、そしてそれを乗り越える度に、手に入れる大切なものも増えて行くのだと思う。

 

僕の熊本でのライブに、わざわざ富山から奥様とともに足を運んで下さったことからつながりができた。

 

僕は、まだ、未来さんが手に入れたものにまでたどり着けていないと思う。

 

彼から届いたメッセージを読むと、さらりと明るく文章が踊る。

 

でも、実際は、端末と格闘して、時間がかかる作業を、一文字一文字こなしている。

 

このタイムラグが、人間力だとづくづく思う。

 

「私の姿を見て悲しんだり、自分が無力だと思わないで欲しい。」

 

なぜなら、この不自由な身体に宿る私自身は、何も損なわれてはいないのだから。

 

そう胸を張って言える自分を目指したい。

 

今日の一曲

I Am A Rock    S&G

http://www.youtube.com/watch?v=My9I8q-iJCI&feature=kp 

てんめぇ。店名違ったじゃねえかああ。

50にして天命を知る

 

と言う。

 

わたくし的には

 

50にして天命を決める

 

かと、思う。

 

違ったんだよ実はお前さん。

 

と,向こうに戻ってから言われても、

 

ああ,いいんです。僕が決めたことですから。

 

と、涼しい顔でうそぶくのが目標。

 

音楽は2、定位置。

 

そんなやつが,中2の夏を境にミュージシャンになること以外考えなくなった。

 

おい,おい,お前,そっちじゃなかろうに。

 

と,守護霊は慌てただろうか?

 

そんなささやきにも耳を貸さず

 

椅子取りゲームで無理くりお尻を押し込んで

 

デビューのいすに座り込んで、

 

ごり押しで始めた天命違えの音楽人生。

 

それでも、必死でしがみつき、

 

周りの人たちに助けられ

 

天命通行許可証をを持ってないがために、やたら詳しくなった検問のいない裏道情報を駆使して、たどり着いた20年。

 

ちがう!ちがう!と追いかけて来ていた神様の使いも、いい加減もうあきらめた。

 

もう好きにしなさい,面倒見きれんわ。

 

と,ジョンが苦労の末手に入れたアメリカの永住権よろしく、手にした天命免許証。

 

さあやっとこれでおれも、、、と、、みてみると

 

条件付きの免許証。

 

以下の荷物を持って向かうべし。と,書かれた病名パーキンソン。

 

天命違えの罰ならば、サイドブレーキ引いたまま、煙を吹き上げまいりましょう。

 

と,途方に暮れつつひらめいた。

 

罰ではない。罰などではない。

 

この荷運びこそが,我が天命。

 

中2の夏の天命違えを見過ごしたのも、

 

そこからもがいて無理くりその道行けたのも

 

全ては,この荷運びのための魂の筋力増強カリキュラム。

 

荷物が重くのしかかってもくずおれない心の筋力が充分に付くまで待っていてくれたのは、あなたの愛といっていいですね。

 

確かに重いが,持ちがいがある。うれしいことに、同じ荷物を運ぶ先をゆく人たちの励ましもある。

 

と,周りを見渡すと

 

にもつにもつにもつ、、、、

 

重荷だらけの世の中で

 

自分の背中の風呂敷を

 

愛おしむ気持ちにゃまだとおい。

 

でも,いつかこの荷物降ろすとき。

 

玄関先で、着払いで、しっかりもらいまっせ。

 

神様実印押してある

 

条件なしの音楽天命通行証。

 

道は続くよどこまでも。

 

さあ,張り切って運びましょう!

 

おそまつ!!

 

今日の一曲

Night&Day  鈴木紗理奈

1/6のゆめたびいんこ

1/6の夢旅人2002を作ってから、干支が一巡した。

2002 年、午年。僕の仕事場は、甲州街道沿いの、古いマンションだった。西側の出窓からは、首都高4号線が目の前に見えた。

6畳と4畳半、それとキッチン。部屋は2部屋とも畳。4畳半の真ん中の部屋で仕事をしていた。

今週中に、水曜どうでしょうの最終回用に、新しい曲を作って、送らなければならない。

もうとっくに終わってると思っていたあの番組、まだ続いていたなんて、、

にしても、それまで6年間ずっと使って来たいまの1/6を、新たなヴァージョンに、それもいままでよりグレードアップして送らなくてはならない。

耳なじみのある曲を作り替えて、それでいて、おお、いいじゃん!!、と、思ってもらうのって、相当大変だ。

スタジオ入るのは明後日、まだ全く出来てない。歌詞はもうあるからいいとして、曲だ、曲、、、

もう、、12時を回っている、、どうしよう、、、むりだ、、そんなのできるわけない、、、

リズムパターンを色々考えて鳴らしていると、

「ぎゃーぎゃーぎゃー!!!!」

不意に南側の部屋から叫び啼く声が聞こえてきた。

「うううううるさい!」

「ぎゃーぎゃーぎゃー!!」

「。。。。。。」

ぽーちゃん。

当時僕が飼っていたインコ。

うち込みをやっていると、それに反応して雄叫びを上げる習性が身に付いていた。

2002年の時点で、4歳、雌だった。

雌は、ある程度の年齢に達すると、巣作りポイントを探して、場所を決めると、巣作り行動を始める。

どこをそう思い込むかは、その雌次第。だいたいが、狭い入り口と、ある程度の広さの内部空間を条件として備えた場所だ。

ぽーちゃんは、僕の着ているT_シャツの中をそれに決めた。

かごの扉を開けると。即座に飛んで来て、Tシャツの首の部分にハッシ!!としがみつき、くるっと身体を反転させて、おなかの中に飛び込んで、ガサガサガサ、、、とそこいら中辺り構わずつっつき回る。

仕事をしてる時にそれをやられてはかなわないので、かごに入れると、巣に入れない憤懣を爆発させるのだった。

「ぎゃーぎゃーぎゃー」

「ううううううううるさいいいい」

やり取りを繰り返しているうちに、何だか曲が出来ない苦しみを、ポーちゃんが代わりに鳴き声で表現してくれている気がして来た。

「ぎゃーぎゃーぎゃぎゃぎゃぎゃ」

「え???」

一瞬、ポーちゃんの鳴き方が変わったようにきこえた、、

「ぎゃーぎゃぎゃぎゃー」

「も、も一回鳴いてみて」

「ぎゃーぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃーぎゃぎゃぎゃー」

「たーらららららたーらららー」

ポーちゃんの鳴き方を真似してみた。

「せーかいじゅうをぼーくらのー」

はまる。

いける!!

「ぽーちゃん、つづきを、、、」

「ぎゃぎゃーぎゃーぎゃぎゃぎゃぎゃーぎゃーぎゃー」

「なみーだーでうめつーくしてー」

!!!いけるいける。

「ぎゃぎゃぎゃぎゃーぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃぎゃー」

おおおおお~~スゲエエ~~インコが曲つくってる!!

数分後、サビのメロディーが完成していた。

「ありがとう、ぽーちゃん。」

さびさえ出来ればあとはもう出来たも同然だ。

「私にも歌わせて」

突然、ポーちゃんがしゃべった。

「レコーディングやってみたいの、鳴くからとって。」

「いや、さすがにそう言うわけには、、」

「誰がサビのメロつくったの?」

「、、、、」

「あなたが困ってたから助けてあげたのよ。」

「わかった。じゃあそのことは黙っててくれるか?」

「いいわよ。そのかわり、うたわせて。」

僕が籠の戸を明けると、待ちきれない様子で、即座にTーシャツの中に飛び込んだ。

身体を反転させると、Tーシャツの丸首部分に器用に止まり、マイクに向かって歌うよう、僕に指示を出した。

オケをスタートさせ、レックボタンを押す。イントロが流れ始める。

「まわるよ~まわる~」

僕が歌い始めると、ぽ~ちゃんは気持ち良さそうにユニゾンで歌い始めた。

ぽーちゃんは4年間ずっと僕の仕事場にいて、いつでも僕のつくる曲を聴いていた。

そしていつからか、自分でつくったメロディーを歌ってみたいと思い始めたのだった。

僕は、ぽーちゃんに導かれるようにして、空を飛ぶように歌った。

地をはう僕に羽がはえ、彼女と一緒に飛んでいるようだった。

気がついたら、オケは終わっていた。

僕は、ぽーちゃんの声をわからないようにリズムトラックへピンポンダビングした。

そのファイルを、HTB藤村忠寿様へという宛名を書いて送った。

ぽーちゃんのつくった旋律は、聴いた瞬間、何か壮大で切ない想いを喚起させる曲として、ディレクター陣の心をわしづかみにした。

「樋口さん、いいよこれ、俺は好きだなあ。よくこんな短期間で、いい曲つくれましたね。」

「ええ、まあ、火事場のなんとかですね言って見れば。」

「でもね、あのオケ、ちょっと変じゃないですか?」

「終りの方に、なんか、ぎゃーぎゃーギャーって、叫び声みたいなの聴こえません?SEかなんかですか?」

「、、、あああ、やっぱりわかりました?あれは、じつはね、、」

と、ここからは、CDエクストラトラックをご覧になった皆さんご存知のとおり、ぽーちゃんの名前が北海道中の、いまや日本中のどうでしょうファンの間に知れ渡るようになりました。

でもね、

僕とぽーちゃんは、わざとバレるように、終り間際に、鳴き声を入れておいたのです。

最初から最後まで、彼女とずっと寄り添って歌ってることがバレてしまわないようにね。

ぽーちゃんは満足し切ったようで、それから、不満を言うことは無くなりました。

でも、インコとしてはすごく長生きで、12歳になった夏に、怖がっていた息子の指に初めて留まったのを最後に、神様の元に還って行きました。

いまでも、夢の中で、ぽーちゃんと1/6を一緒に歌うことがあります。

溌剌としたポーちゃんは、僕の遥か空の上を飛びながら、地面を歩く僕に奇麗な歌声を響かせてくれます。

「がんばって。まってるからね、ずっと。」

生き生きと空を飛ぶぽーちゃんが、呼びかけてくれます。

いまも、曲作りに煮詰まったとき、

どこからか、ぽーちゃんの声が聴こえてくるような気がします。

「せ~かいじゅうをぼ~くらの~なみ~だ~でうめつくして」

1/6の僕の歌が、生き生きと空を飛んでいるように聴こえるのには、

そんな秘密があったのです。

ぽーちゃん

ありがとね。

今日の一曲
Song bird フリートウッドマック

ただの歌詞じゃねえかこんなもん

というのは、昔読んだ桑田圭祐さんの著作。

 

樋口了一ゴールデンベスト。

 

手紙や、のぞみ、といった最新の作品をのぞく全時代を網羅した20年の足跡。

 

正直に言って日本のポップスは、ほとんど知らなかった。

 

21の時の夢がグラミー賞。

 

目は完全に海外に向いていた。

 

組んでいたバンドのライブも、歌詞は決まってなく、いつもそのばそのばのエモーションを、fkbdっbん898う5んギッヒbいpふぃえr958y-m7、、、と切り取って叫んでいた。

 

そこに、三宅さん。樋口君、歌詞。歌詞が、全てだ。メロディーは湯水のように出るだろう?。歌詞は、乾いた雑巾を絞るようだろ?。絞りにしぼってやっと一滴垂れた雫を、少しづつ集めて行くんだよ。

 

怖じ気づいた。

 

方法論は一人一人違うだろう。全く逆のアプローチでライムを紡ぐひともいる。でも、僕にとって三宅さんの言葉が、何故か胸に刻まれた。

 

初期の作品は、松井五郎さんの詩もあるけれど、途中からは歌詞は基本的に自分で書いていたので、僕のしぼった乾いた雑巾からの雫が詰まっているベストって言い方も出来る。

 

歌詞が主役で、旋律が脇役なんて考えられなかった。

 

伝えたいものは音楽そのもの。音楽を何かを伝えるためのツールに貶めたくなかった。

 

そうかたくなに思い込んでいた初期。歌詞と、メロディーが立ち向かっている。

 

ステージの上で、素晴らしいパフォーマンスが出来るように普段は口もきかない漫才コンビみたいに。

 

互いに一歩も譲らない。

 

いまでも。「ま」で音が上がる。しゃべり言葉でかんがえれば、「い」にアクセントが普通だ。ま、が上がると、「居間でも」と言う意味が立ち上がり始める。

 

この辺、微妙だけど、僕はメロディーを変えることはしなかった。それがよかったのかどうかわからない。

 

今ならば、色んなアプローチをしたかもしれないけれど、それをかたくなに拒んでごり押しして来た足跡が、可愛くもあり、いまに生きている気もする。結局その、言葉に一歩も譲らず対峙しているメロディーが好きだ。

 

いまはもう乾いた雑巾はボロボロにすり切れて、自分の中のソングライティング博物館に陳列されてる感じで、実用に供することは少なくなったかもしれない。

 

振り返れば、歌詞というものに全く価値を見いだしていなかった僕に、それが担うべき役割に、強烈に心を向けさせてくれた時期だったんだと思う。

 

そして、歌の旋律というものは、言葉をよりよく伝えようと進んで脇役に回った瞬間、言葉と相まって、言葉以上の輝きを放ち始めるんだって言うことを、学ぶことになる、「手紙」の言葉との出会いへ至る準備期間だったんだということも

 

知る由もなかった30代。

 

そして、40代にさしかかり、命の実相を知り、堰を切ったように歌詞に意味を求め始めた。

 

伝われ伝われと、祈るように歌うことが当たり前になった。

 

それに呼応するように、パーキンソン病がやって来て、歌声、技術に制限がかかった。

 

いま、やれることに、集中する必要に迫られた。

 

もし、歌詞に対して自分が昔のままのアプローチと、価値観しか見いだせていなかったら、

 

不自由になって行くスキルとしての自分の歌に

 

何の未来も魅力も感じられなかったかもしれない。

 

歌うことから降りてしまったかもしれない。

 

でも、僕はいまも歌っている。

 

どんなに変わろうと、歌おうとするだろう。

 

伝えるべき何かがそこにある限り

 

それが、役割と信じて。

 

誤解でも、

 

死ぬまでやれば

 

本懐なり。

 

今日の一曲

ファイト 中島みゆき

ラディッシュは永遠に

おかあさん。

 

31年間。おつかれさまでした。

 

そしてこれからの、おかあさんの新しい挑戦へ、こころからのおめでとうを贈ります。

 

ずっと何かをやり続けたあなたのパワーをもらいたくて、みんながここへ集まってきたのですね。

 

僕もその一人でした。

 

そしてきょう最後の歌をここに届けることが出来てほんとうにうれしかった。

 

少女のように大泣きするお母さんが、かわいかった。おかあさんにひとが集まってくる理由をはっきりと実感しました。

 

なりふりかまわない魂。

 

ひとはそんな魂に憧れるんですね。

 

「手紙」の主人公の親も、まわりにどう思われようととにかく子供に愛するということをつたえたい。

 

おかあさんと、てがみのおやがかさなりました。

 

「愛する忠寿へ」と、最後思わず歌ってしまったのも、目の前にいるおかあさんの想いが僕に入って来たんです。いつも変えるときは目の前にいる贈りたいひとの名前に変えるんです。でも、あの時は、お母さんへではなくて、お母さんの代わりに、遠い北の大地にいる息子へお母さんの想いをとばせたいとおもったんです。

 

最後の1/6は、31年の年月をかけてたどり着いて、そこから新しいスタートを切るあなたのための歌になりました。

 

まだまだ歩みを止めないで、歩き続けて下さいね。

 

お母さんのパワーをみんなが必要としています。

 

そんな風に生きて行きたいと

 

みんなが憧れています。

 

そんなお母さんでいて下さい。

 

僕をいつでも優しく迎えてくれたラディッシュは

 

永遠に無くなりません。

 

31年間ほんとうに

 

おつかれさまでした。

 

そして、

 

ありがとうございました。

 

 

今日の一曲

1/6の夢旅人2014@ラディッシュ

4人は相どれどれどれ???

樋口了一ゴールデンベストがリリースされました。

 

お買い上げの皆さんありがとうございます。

 

丁度20年目の時期にまるで示し合わせたかのようなベスト盤。ビートルズの赤盤を買った中一の春。ジャケットの表と裏、デビューしたばかりの4人が初々しい笑顔でビルの通路から身体を乗り出してるあれね。

 

で裏返すと、解散間際の4人ががんばって笑顔つくって、デビューのときと同じ立ち位置、同じポーズで写っている。

 

それまで僕の最大の悩みだったのが、初期の4人が、解散間際の変貌した4人のどれになったのか、、っていうこと。

 

下宿の学生さんたちにもらった、ドーナツ盤のジャケット写真だけがたよりで、勝手な想像で結びつけていた。

 

このたれ目のひとは、あんまし変わってないなあ、、この人は多分これで、、あと、鼻のでかいひとはきっと、このひとだな、、

 

てなかんじ。

 

 

一人だけ、丸眼鏡で、髭もじゃで、髪が一番長い、異彩を放っている人物がいた。このひと、、何があったんだろうか、、相当ショックなことが、、、

 

と、そのキリスト然とした佇まいのその人のおかげで、全ての予想が揺らぎ始める。4人の誰でもがこのルックスならありえる、、、

 

その長年の悩みが、赤盤で、解決した。

 

「。。。。。。」

 

表の写真では一番健康そうに、ほっぺたにえくぼをつくっていた、じょんれのんって言うひと、、だったんだ。、、かわいそうに、、、どうしたんだろう、、、じょん、がんばれ、がんばれ、、、じょん。

 

情報の欠乏は、お門違いな同情心を産むものなのでしょうか。

 

で、その僕の買った赤盤のC面の一曲目ヘルプには、イントロがついていた。

 

友達に言っても信じてくれない。

 

「ヘルプは、HELP!!ではじまっと!!」

 

ああ、昨日のことのよう。

 

ジャケット写真は、僕のイラストなんですが、

 

僕の音楽活動20年の、節目の年号がギター鳥のボディの部分に、年輪のように刻まれています。

 

この6つの年号全てわかったかた、

 

♪知っているのに、わざと間違える、65てんのひとがすっき、すっき、すっき、、、マツモトチエコ。

 

、、、わかるひとは、、、樋口了一カルトクイズでれます。

 

中身の話は次回。

 

 

今日の一曲

GIRL   BEATLES

ウォーターフォール オブ サウンド

暮れの訃報に書いておきたいことを。

 

 

 

右も左も分からないファーストアルバムのレコーディング。

 

20年前。スタジオにエンジニアと2人きり。誰も何も教えてくれない。MRカウンセラーという曲。「じゃ,じゃあ,とりあえずギター録りましょうか。」と,借りたオベーション のアコギ、ラインでつなぎ、うち込まれたオケに、頭から弾き始めた。

 

その時僕の頭にあったのは,大滝詠一さんの、ア ロングバケーション。

 

フィルスペクターサウンドを長年研究して録られた分厚く、きらびやかな音の壁。

 

弾き終わり、プレイバックを聴いた後、

 

「あ、も一回、録ります。」

 

「消していいですかこれ?」と、エンジニア

 

「いえ、この上に重ねます。」

 

「、、、はい。」しばしの沈黙のあとエンジニアの返事。

 

僕がその時のダビングで弾いたあこぎのストロークは、8回。

 

そのすべてが、本ちゃんに採用されている。

 

聴くと、目の前に横一列にアコギのライン録りの平板で奥行きのない、固い、音の壁が立ちはだかっている。

 

無知は、恐れを知らない。

 

いや、全く知識がない状態より、半端に聞きかじってる方が手に負えない。

 

重ねりゃふえんだろ。

 

これが、僕の頭を駆け巡っていたキーワードだった。

 

一人で重ねた、1+1+1+………が、<1になるってこともあるなんてその時は知る術もない。

 

8回のアコギのライン撮りで出来た音の塊は、先人へのオマージュと繊細な配慮によって作られた、かの大滝ウォールオブサウンドとは全くかけ離れたものだった。

 

イースト菌がパンの種を膨らまして行くような増え方と、グレムリンが増殖する増え方の違いと言えばわかりやすいでしょう。

 

今から思えば、ほったらかしにしてくれたPの三宅さんのおかげで、僕は実地で失敗を重ねながら、一つ一つを学んで行かせてもらえた。

 

空気で混ぜる。これが、大滝サウンドのきも。

 

同じスタジオで、2人以上で同時に同じプレイをしてその混ざり合った空気を絶妙のマイキングで録る。

 

電気的にピックアップした音を、一人で何回重ねたって、グレムリンは増えて行くが、パン種は膨らまない。

 

まざらないのだ。

 

大滝さんの当時のレコーディングは、常に同じパート複数人数で行われた。

 

ドラム2人ピアノ2人ギター三人てなぐあいに。

 

それを、名匠エンジニア吉田保さんが、あの毛足が長いのに音像がしっかりしているリバーブの保マジックで仕上げられて行く。

 

君は天然色、恋するカレン、さらばシベリア鉄道、、etc

 

あの壮麗なサウンド。

 

これらは、大滝さんのこだわりのすてきなたしざんで実現したことと知った。

 

憧れのレイナという曲は、僕なりの大滝ポップスへのオマージュ。

 

自分のサウンドが見つかっていたわけでもないけど、ビートルズの使っていたフェアチャイルドというコンプが初めて使えたので、リバーブは敢えて少なめにした。

 

予算がなく、リズムトラックも、上ものも1人づつだったけど

 

ただ、忠ちゃんと二人でアコギを同じスタジオで同時に弾いた。

 

8回弾いてグレムリン8匹だった前回に比べ。

 

空気が混ざり、パン種がふっくらと膨らんでくれる実感があった。

 

レコーディングの面白さが初めて自分なりに見えた瞬間だった。

 

このような形で、数知れない現役のアーティストたちに有形無形の影響を与えた、大滝詠一さん。

 

壊れかけたワーゲンが、春の客船の出港する港に浮かぶスピーチバルーンが、天然色の憧れであり続けているのも、

 

その言葉たちが、ナイアガラ瀑布のきらめきに彩られているからです。

 

ありがとうございました。

 

そしてこれからも

 

どうぞよろしくおねがいします。

 

今日の一曲

雨のウエンズデイ

こころずっとおくのほう

ここ最近、学校を訪ねる機会が多かった。

 

「来て来て先輩」と言う熊本市の企画。

 

私を選んでいただき、恐縮です。

 

で、手を挙げていただいた小中学校の中から、エリアの偏りがないように選んでいただいて、合計10校ぐらいだろうか、

 

トーク&ライブをやらせていただいた。

 

なので、いきおい約10名の校長先生方とお会いしたわけですが、

 

大柄、ポマードオールバック、「峰」、何となく近寄り難いオーラ、、、

 

と言う自分の学生時代の校長先生像とはだいぶ違った、いい意味でフレンドリーなプレジデントと話をするという、好い機会を得ることができた。

 

十人十色。学校を率いているという使命感に対しては共通する真摯さがが伝わってきたが、その表現の仕方がそれぞれ個性的で、面白かった。

 

また、これで、私が話す内容が、最初のうち、「皆さんの目の前の、ピアノあるでしょ?これがね、すーっと天井まで上昇してね、そこの窓から出て行ってさ、それで反対の窓から入って来て元の場所に戻るっていうことがね、、、あったわけなんですよ」

 

などと、展開してゆくものだから、何を話し始めるんだこの輩は、と、ハラハラなされたことと思う。

 

私が「手紙」の言葉に出会った経緯にからめて、目指す夢の形が自分なりに変わっていったということを話す時に、避けては通れない話題なので、すいません、と前置きして話すことにしているのだが、生徒は興味津々目を向けてくれる反面、ご心配を御かけしたことだったろうと思います。

 

話すこちらとしては、大真面目で、ふざけているつもりは毛頭ない。その想いは伝わってくれたかなと思う。自分が命に対する考え方を180度変えたことで、角さんに出会い、角さんを通して「手紙」に出会い、手紙のおかげで、こうして皆さんとお会いして話をさせていただいているのであれば、その有機的な連鎖に不思議な導きみたいなものを感じるのは当たり前と言えば当たり前なのです。

 

「腹を割って話した」結果、各校長先生方も、胸襟を開いて下さってありがたかった。

 

「終りから考える」と言う言葉を下さった校長先生がいらっしゃった。自分のこの人生の終りと言う視点から自分を見つめてみる。まだまだ時間はある、何でもできる、というのではなくて、自分の終りを知った時、敢えて最期に何をやるか、という状況に追い込んで考えてみると、ほとんど全ての人が「人のためにどれだけ役立てるか」ということを考えるという。

 

魂の本音が、表面にでてくるのだ。

 

シルバーバーチという霊が、モーリスバーバネルを通じて60年間手を替え品を替え言い続けた「service」他者への奉仕。僕のトンデモ話がこの帰結へ向かった時、ようやく先生方は安堵されたことと思う。通り道の違いはあれど、目指す所は同じなのだと。

 

話は変わって、数日前、仙台へ行って来た。

 

パーキンソン病の市民フォーラムで。

 

そこで、貴重な出会いがあった。

 

楽屋に訪ねて来られた、見たところ私より年上の女性。私と同病で、同じ熊本出身ということだった。

 

名刺をいただくと、「医師」と書いてある。

 

「一時期は、身体がどんどん動かなくなって困りましたが、リハビリを懸命にやって、持ち直しました。」と、にこやかにはなされる。

 

その笑顔には、日々進行する症状に立ち向かう勇敢な力強さが宿っていた。

 

「病気の症状で小声で早口になってしまうのが困ります。特にイントネーションが熊本弁なので。患者さんに伝わりにくくて」とおっしゃった。

 

「こちらは長いのですか?」と訊いたところ、

 

「私がこちらへ来たのは、発病してからです。」と、返事が返って来た。

 

私はてっきり、こっちへ嫁いでこられたかなんかで、長年住んでいるうちに発病されたのだとばかり思っていた。

 

「私にとっては、最期のご奉公だと考えてこっちへ来ました。」

 

転倒防止のストックを持ちながらその方はおっしゃった。

 

この病気になって、見知らぬ土地へ医師として行こうと決断された。そんな人がいるんだ。正直驚いた。

 

この病気になってもこんな形で新しい道を切り開こうとする意志がまだ発揮できる余地があるんだ、現にこの方がやっておられる。

 

「終りから考える」が、人に与えるエネルギーを、実際に目の当たりにさせてもらった気がした。

 

最期に何かと考えた時に、人の心に浮かぶこと「人のためにどれだけ役立てるか」

 

これって、実は回り回って自分のためになる。

 

というパラドックスは、心のずっと奥の方にある情熱の薔薇は知っている。

 

目の前の女性の中にはその薔薇が一輪、深紅の輝きを放っていた。

 

その眩しさが、僕の中にある種に、芽吹きの刻を知らせるベルを鳴らした。

 

そんなきもちわかるでしょ。

 

今日の一曲

情熱の薔薇 ブルーハーツ

永遠の誓い

先日、大分のアルメイダ病院と言うところで、第143回目のポストマンライブをやらせてもらった。

 

緩和ケア病棟、、いわゆるホスピスの入院患者さん、ご家族、看護師さん、ボランティアの方々へ。

 

大分での我々の仲間、釘宮くんの発案で。

 

彼のお母様が、1年前最期の時をこの病院で過ごされた。

 

その時はお見舞いにいくだけで、できなかったポストマンライブをやりたいと、彼が強く思ってくれたことで実現した。

 

ホスピスに届けさせてもらうのは、3度目。一度目も大分だった。ゆふみ病院。そのころはまだポストマンライブという名前すらついていなかった。

 

命の希望の歌を届けるライフワーク。

 

その気持ちに気負いはなく、迷うこともなくなった。

 

でも、肉体の終焉という命の節目を迎え、それを受け入れようとされている人たちへ、この希望を、僕ごときがリアリティーを持って届けられるのか。3度目の今回もやる前にひるんだ瞬間があった。

 

自分の気持ちの葛藤を悟られまいとすると、ついつい言葉に、歌に余計な力が入ってしまう。

 

今回それを克服するのが僕のテーマだった。

 

自分がなんとかしなきゃとか、自分こそがやってやるんだとか、そんなモチベーションは全部捨てる。

 

そして、まかせきる。なんに?

 

そりゃ決まってる。自分を生かしてくれている法則に。人によっては神様ともいう。どっちだっていい。

 

あとは、、、そう、あれ?

 

言う前からスタンばってくれてるw

 

ベックさん、みたらいのご主人、釘宮くんのお母さん、ゆふみ病院のあのかた、、、梅木会長

 

おおぜい。

 

、、、おやじも。

 

何にも心配いらない。僕が伝えようとしてるのは、あなた方がまだ消え去ってはいないってことです。

 

そうやって笑ってくれてれば、力む必要もない。

 

一曲目 How

 

久しぶり。キーを一音下げて、歌詞を置いていくように歌った。

 

この曲を書いた意味が、初めて心に沁み渡った。

 

どうやって信じろって言うんだろう 僕に終りがあると この世界中 命の歌が鳴り止まないのに

 

今日は、マーサが一曲目からいない、、、避難した模様、、。泣き虫DJ。感情移入の天才。

 

ご高齢の方の中に、40代ぐらいの患者さんもチラホラといらっしゃる。

 

命は、永遠に続いてゆく。これまで何度口にしただろう。

 

患者さんの多くが、そんなこと僕がわざわざ言わなくても、もう知ってるよって顔をしているように見えた。

 

余計なものがはがれ落ちて、心の真ん中にあるものが輝きを放ち始める。

 

肉体が衰えるのと相反するように、生き生きと。

 

瞬きの間に過ぎていったこの生を悔やむ曇りはあらず

 

紡いだ歌詞一つ一つが、自分の心に突きつけられる。

 

言葉を伝えるというのは、何かを信じるということ。何かを信じるということは、背負い切るということ。

 

背負い切るとは引き受けて責任を取るってことだ。

 

信じるって決して受け身なものではない。知識や証拠がある一定量を越えたから、はい、自動的に信じます、、という時は来ない。

 

いくら万人のように知ったところで、その魂の芯に信じるという灯を点すことはできない。

 

自分の理性を総動員して、できる限りの高さに積み上げたケルンのいちばんてっぺんに置く石は、

 

目の前の患者さんたちが、心に生き生きと輝かせている、無言のインスピレーション。

 

それが、歌っている僕の周りを取り囲み、優しく心にはいってくる。

 

与えた以上、何倍もの贈り物。

 

そして手紙。

 

旅立ちの前の準備をしている私に祝福の祈りを捧げて欲しい

 

この言葉をこころから、100%純粋な気持ちで言える人はいないだろう。

 

ライブをやる前から、入院されている40代の男性患者さんが、恋人の女性と人前結婚式を挙げたという話を伺っていた。

 

病室にお邪魔する。

 

僕がMCで紹介した、「シルバーバーチの霊訓」について、詳しいことを教えて欲しいと訊きに来てくれた女性がベッドの脇にいた。

 

ベッドには、新郎が横たわっていた。笑顔で挨拶を交わす。

 

こういうときにどんな言葉を交わすべきか知っていますか?ぼくはしりません。

 

取り繕ったり、その場をなんとかやり過ごそうと思って出た言葉は、1秒1秒を慈しむように過ごす2人の前では、砂でできた枯れ葉のようです。

 

前向きで、明るい笑顔の絶えない新婦と、少しシャイで優しそうな新郎。

 

結婚式の写真を見せてもらった。

 

ベッドに横たわったまま、タキーシードを来て戸惑い顔のだんなさんと、うれしそうに微笑む花嫁衣装の奥さん。

 

この人生で、2人はこのように出会いこのように別れるということを知っていたのだろうか。

 

それを知っているのなら、この別れは永遠ではないということも、すぐに再会の時が来やってくるということも、知っていらっしゃるはずだ。

 

前しか見ていない2人の間に流れる空気が、その場に居合わせた人たちへ向けて、前向きに生きるエネルギーを放っていた。

 

気休めの言葉は言いたくない。ただ、僕が知っていることを伝えたい。信じていること、責任の取れる言葉を。

 

この時ほどそう強く思ったことはなかった。

 

命は永遠。言葉にするのは簡単だけど。

 

信じて、そのことを前提に生きるってことは、覚悟がいる。

 

2人の素敵な新婚カップルを前にして、そう思った。

 

不思議なことでも、特別なことでも、ないのです。

 

必ずまた、

 

逢える日が

 

くる。

 

今日の一曲 Starting over  John&Yoko

幸せのおかわり自由

明後日の、キーブでのライブ。

村上ゆきさんとのユニットEndless  Rice での初ライブといっていいですが、

各地からお客様がやってきてくれそうな予感。

富山からも。

一度奥様と見えられた、僕と同じパーキンソン病を患われている未来さん。

大変な距離を交通機関を乗り継いでやってきていただく予定になってます。

いろんな思いを胸に奥様そして、娘さんとやってきてくれるそう。

この病気がわかった時に授かった娘さんだそうです。

お会いするのが楽しみです。

僕が、自分の病を公表してから、このホームページへも、同じ病気の方から、メッセージを頂くことが増えた。

ありがたいことです。

自分の中だけにしまって、誰にも言えなかった不安や思いを僕宛に送って下さるのを読んでいると、公表したことにちゃんと意味があったんだと改めて思えます。

返事ださずにごめんなさい.全部きっちり読んでいます。どんな形でメッセージを返すか考え中です。

4年前、この病気が特定できたとき、周囲の人たちはそれが漏れないようにと気を使ってくれた。

当然僕のことを思いやってのことだ。

ちょうど手紙が世の中に浸透し始めた頃で、いい週刊誌ネタになることを心配してくれたこともあった。

僕自身、この歌のメッセージが個人的な事情で、私小説化してしまうのがいやで、公表はしないと、決めていた。

そんな中、1人だけこういった人がいた。

「樋口君、公表するべきだと思うよ。」

ボクがデビューしたときのEMI時代のプロデューサーの三宅さん。

「君は、自分を表現して世の中の人たちに何かを訴えて行くのが仕事だろ?」

「その病気になったってことは、何かの役割があるってことだと思うよ。」

当時は、乱暴な意見に思えた。周囲もびっくりしてた。

でも、今この三宅さんの言葉がよく理解できる。

はい、この荷物抱えて、新しい役割ですよ。

って、神様にいわれてる。

もちろん、100%理由がある。

このことだけでも、同じ病気の方に伝えられたらと思った。

音楽を通じて伝えられること。

に,新たな可能性が増えた気がしました。

できることは減っているのに、やるべきことが増えた。

増えたやるべきことをやるには、できることが減る必要があった。

今できることをやれば、今までよりも多くのことができる。

禅問答みたいですが、、、
どんな状況になろうと、幸せのごはんはいつも炊きたてで、おかわり自由です。

そんなことを思っています。

20日、熊本キーブ。お待ちしてます。

来場者全員にER初ライブ記念プレゼントをご用意してます。

 

今日の一曲 なみだいけ エンドレスライス

月記どころか

季刊記になってしまってる、

と、いうより、俺、更新してるじゃん。

すげえ。

と、めずらしがっています。

皆様ご無沙汰です。

ブログの樋口です。

おもしろいね、

ツイッター、FB、ブログと、書くメディアによって、キャラクターが自然に変わるのがわかる。

この、ブログの樋口は久しぶりに登場した訳です。

 

しかし、その歴史は一番古く、2003年からもうかれこれ10年になりますねえ。

 

1/6をリリースした辺りから始めたんだっけかな?

 

僕が熊本に移り住んでもうすぐ2年になります。

 

わかりやすいのは、あの3.11の震災と同じ時期だったから。

 

震災から2年という新聞記事を目にすると、

 

ああ、熊本に引っ越してきてから2年が過ぎたんだって、、、

 

3/1、2日と、熊本で、二つの震災支援のチャリティーコンサートに出てきました。

 

遠くはなれた九州で、まだまだ継続して支援していこうという、熱を保ち続けている方々にお会いして、ここから、ここからが、本当の支援なんだって思いを新たにしました。

 

何よりもうれしかったのは、熊本のアーティストの方々といっぱい話ができたこと。

 

僕よりも年上の、THE HEATの菊川さん、20代の若い可能性ケンシロウくん、その他多くのアーティストたちと、夢を見続けることのよろこびと、大変さについて話ができました。

 

夢はまだまだ終わらない。

 

終わる時は来ない。

 

♪Funky town OSAKAかっこつけんときたりいや、同じ〜アホなら、夢見にゃ損そん〜〜〜♪

 

と、いう曲を書いたことがあったなあ、、

 

まさしく。

 

そのとおり。

 

ああ、やっぱり、ブログの樋口は、くつろげるなあ、、、、

 

自分ち帰ってきたみたいww

 

今日の一曲 F.T.O  関ジャニ∞

了 〜はじまりの風〜

このブログで、書こうかどうか迷っていたんですけど、

 

書くことにします。

 

今年の5月、私の父が他界いたしました。

 

急性腎不全というのが診断書に書かれた死因でした。

 

4月の僕のドキュメンタリー放送後3日経って、突然体調を崩し、施設から救急病院に運ばれ、そのまま、ICUで治療を受けていましたが、緊急入院した時点から落ち始めた意識レベルは低下を続け、1ヶ月後の5月28日に、他界いたしました。

 

84歳でした。

 

後年父は、脳梗塞の後遺症で、左半身が麻痺していて、体の自由も利かず、認知症状もかなり進んでいました。

 

僕を、息子だと認識できないときもありました。

 

父が僕の顔を見たときの口癖は「お前は仕事はいまなんしよっとや。」でした。

 

音楽の道を選ぶと言った大学4年の時のショックが相当大きかったんだと思います。

 

「歌ばつくりよる。作ってから歌いよる。」これが僕の返答。

 

「お前がや!?」心から驚いて父の言葉。

 

これを、多い時で日に15回ぐらい繰り返す時もありました。

 

ドキュメンタリーの撮影で、NHKのスタッフが施設を訪れた時も、見事にこの台詞を言ってくれました。全くカメラを意識することなく。その道60年の名優のように。

 

今思えば、父はこの世での最後の仕事だと思ってくれていたんじゃないかって思います。

 

僕は、父がいなくなってしまったなんて、全く思っていません。

 

むしろ、最後の10数年間は、左半身の麻痺と、自分の気持ちを体を通じて思うように表現できない苦しい認知症の状態にありましたから、そこから解放されて今はつらつと新しいステージで飛び回っているところを想像するだけで、、

 

うれしくなってきます。正直。

 

母も、父の遺影を前にしてよく口にします。

 

「写真ば、おとうさんの若っか頃のにしてよかった。惚けとらすお父さんにはなんも話のでけんでしょが。死なす前より、今の方が、お父さんば近くに感じる。」

 

実際に母の身近にいてくれるんでしょう。

 

父は学歴こそなかったものの、刃のように頭の切れる男でした。

 

だからこそ、こっちも本気でぶつかっていかないと、たちまちに論破されてしまう、

 

そんなこともあって、僕は長い間、親に自分が将来音楽をやっていくとは言えなかったのかもしれません。

 

父によって、自分の夢がいかに荒唐無稽なものであるのかを目の前にさらされる気がして、怖がっていたのかもしれません。

 

僕が、東芝EMIから、デビューすることになり、当時のプロデューサーの三宅さんが、自宅まで挨拶に来ました。

 

世界で一番嫌いな出されたメロンを、ひとのみで飲み下し、三宅さんは父の尋問のような質問に矢継ぎ早に答え、最後にこういいました。

 

「私が彼をやろうと思った一番の理由は、ご両親から受け継いだその声です。」

 

父は黙って聴いていました。

 

1993年9月に、ファーストアルバムが出ました。

 

熊本の松本レコードから、かなりな売り上げの情報がありました。

 

調べてみると、僕の中学時代の校長と名のる初老の男性が、数十枚買っていったということ。

 

父しかいません。

 

いつしか父は、僕のことを、「あんた」と呼ぶようになりました。

 

了一、おまえ、と呼んでいたのが「あんた」になりました。

 

くすぐったさと同時に、僕の目の前に壁のように立ちはだかっていた父が、急に小さくしぼんでいったような寂しさを感じました。

 

自分のやりたかった仕事に就いて、それなりに一生懸命やってる僕を一人前の人間として認めてくれた「あんた」だと僕は勝手に思っています。

 

僕は今回のアルバムを、父に捧げようと思っています。

 

父は、僕が生まれたとき、悩みに悩んで、「了」という一文字の名前をつけることに決めました。

 

樋口 了

 

これを見た、母方の祖父が

 

「樋口家が終わってしまうという意味にも取れる。」

 

といって、それでは、今までの樋口家はここで一旦終わり、そこから新たな第一歩を踏み出すという意味で「了一」というのはどうかと提案したそうです。

 

ちちはこれをうけいれ「樋口了一」という名前に決まりました。

 

今回のアルバムのテーマは、前作よろこびのうたに続いて、命、です。

 

様々な題材で、命が変わらずに続いていくんだという確信を6曲の歌の中に込めました。

 

歌の中に、様々な「おわりとはじまり」の風景を描きました。

 

レコーディングを進めながら、僕の頭の中にはなぜか、父が僕につけようとしていた「了」の一文字が浮かんでいました。

 

そしてふと思ったんです。

 

父は、この物事のおわりを表す「了」という一文字に、同時に新たなはじまりの意味をも込めようとしていたんじゃないかって。

 

一つの命の旅のおわりの中に、もう既に次なる命の旅のはじまりの萌芽がある。

 

父が僕に付けようとしていたこの名前を、今回のアルバムのタイトルにしようと言う思いが、少しずつ高まってきました。

 

了 ~はじまりの風~ というのが、僕のニューアルバムのタイトルです。

 

「瞬きの間に過ぎていった」84年の人生を父は今振り返っていることでしょう。

 

そして、これから続く、永遠といってもいい進化の道のりを見据えているところだと思います。

 

その中で、僕という命との交わりをどんな風に思い出し、感じているのか、

 

父に訊いてみたくて

 

父への手紙のつもりで、

 

このアルバムを、

 

捧げたいと思います。

 

 

今日の一曲 桜の森

1000kmの夏

そろそろ、ニューアルバムについての話をしていこうかな。

 

大分では毎年夏に、子供が百キロ歩く。「歩こう大分 チャレンジ100キロ」

 

今年で十年。毎年、引率して来た人がいる。

 

文ちゃんこと、本田文秀氏。

 

13代続くお寺の住職さん、由布支援学校の先生。

 

そして、この、「あるこう大分、チャレンジ100キロ」の、引率者でもある。

 

毎年、熊本の僕の家に、除夜の鐘をプレゼントしてくれる。

 

「はい、行きま~す。家族4人分、4回ね。」と軽いのりで、ご~んご~んご~んご~ん、と、電話越しに、聴かせてくれる。

 

実は、去年のちょうど今頃、きょらむんで酒飲んでたら、文ちゃんが寄って来た。

 

「樋口さん、あのね、頼みがあんだけど、、」

 

僕の、大分での仕事の約93パーセントは、酒に酔った夜決まる。

 

聞くところによると来年、チャレンジ100キロは、10年目を迎えると。

 

それで、自分は、この十年を区切りに、この番組から引退しようと思うと。

 

いままでは、山下達郎さんの「ジュブナイル」を使っていたんだけど、最後の十年目のために、僕に書き下ろしの新曲を作ってほしい。

 

ということだった。

 

「どうかな樋口さん。」

 

で、僕の返事は

 

「いいよ。」

 

考えなしに安請け合いしたようにみえる。いつも。違うのだ。

 

僕なりに、考えていた。

 

というか、毎年100キロ、10年で1000キロ。1000キロの夏だね、なんて文ちゃんと盛り上がっていた時点で、いい曲が生まれることがわかっていた。

 

やりがいのある仕事だと思った。

 

僕なりの勝算と、強いモチベーションを感じた上での「いいよ。」だった。

 

さびは、割と早いうちからできていた。

 

子供たちが主役であるのは、間違いないけれど、今回の曲は、文ちゃんが10年間見つめ続けた子供たちの姿を、文ちゃんの視点から描くことにした。

 

僕にも、子供が2人いる。

 

生まれたばっかりのへその緒の付いた姿を知っている。

 

そこから、現在までの成長を思うと、命ってすごいなあとつくづく思う。

 

文ちゃんが、子供たちを見つめる眼に、自分の親としての視線を重ねることが、この1000kmの夏を作るにあたって、一番自然な形に思えた。

 

10年目の100キロを歩く子供たちが出発する7月の直前に、OBSのスタジオで、今まで100キロを歩いた子供たちのコーラスを録った。

 

最初に歩いた子供たちは、20歳を越えている。

 

様々な年代の100キロ卒業生が、大勢集まってくれた。

 

「♪1000キロの~夏を君と歩いた~」

 

と、大声で、歌うみんなの胸には、100キロを歩いたあの夏が大切にしまってあるようにみえた。

 

「よみがえるその場面は、未来の君へのエール」

 

過去のどこかで体験したあることが、その後の自分を成長させ続けてくれているっていうこと。ある。

 

そして、今年の10期生がOBSにゴールしたのが8月4日。

 

ぼくも、そのゴールの場面に、立ち会わせてもらった。

 

親御さんたちが待ち構えている中、文ちゃんを先頭に、12人の子供たちの隊列がみえた。

 

手作りの、小さなゴールゲートをくぐったみんな。

 

それぞれが、晴れやかな顔をしていた。

 

そして、たくましく、大人びた表情を身につけた彼らの顔が、両親の顔を見た瞬間、子供に戻る。抱きしめた手をいつまでも離さないお母さん。その胸の中で、泣きじゃくる女の子。男の子。

 

文ちゃんは、今まで一度もゴールでサングラスを外したことがなかった。

 

外してしまうと、感情がコントロールできなくなりそうだということで。

 

「じゃあ、今年は、是非外して下さい、サングラス。思いっきり感情をさらけ出して下さいよ、最後に。」

 

という僕の言葉に、外すと約束してくれた。

 

その約束を守って、外したサングラスの下から出て来た文ちゃんの眼は、あまりにも優しい眼だった。

 

言葉がつまる。涙がにじむ。

 

「今年も無事に、ゴールすることができました。」

 

淡々と語るその胸に、どれだけの場面がよみがえっていたことだろう。

 

10年何かをやり続けると、神様がご褒美をくれる。

 

オノヨーコさんの言葉。

 

歴代の子供たち、スタッフが駆け寄り、文ちゃんの胴上げがはじまった。

 

真夏の炎天下の100kmを、子供たちの無事だけを考え、10年間歩き通した52歳の男が宙に舞う。

 

1000キロ達成おめでとう!!

 

お疲れさま、ぶんちゃん。

 

今日の一曲
1000kmの夏