「樋口さん、早く歌えなくなってよ。」

 

「はっ?」

 

「んでさ、もうだめです、これで最後ですうっ!っとか、ステージの上で宣言してさ、そしたらそれ俺撮るからさ。」

 

「いやだよ!」

 

「そうっ!!そんで宣言したのに、まだしぶとくやろうとしちゃってさ、またステージに上がろうとする往生際の悪いところをさ、、こうダァーッツと撮るわけさ。だからさ、早く歌えなくなってほしいんだよね。」

 

こないだの、女川のイベントの打ち上げでの、私とふじやんとの会話。

 

「そういうこともくろんでんだったら、ぜったいやめてやんねえ。もういいよ、こないでって言って、つぎの祭りのとき俺のスケジュール入ってなくても、無理矢理乱入してやるからな。」

 

「そういうみっともないとこもしっかり撮るんだよ。けたけたけたけた。」

 

と、赤ら顔のひげが笑った。

 

ああ、これか、と合点がいった。

 

大泉君を掛け値なしに追い込んで、ぎりぎりの極限まで怒らせてあの窮鼠猫を嚙む様な奇跡の面白さを引き出してきたディレクションは。

 

ただ、そんな事思ったのはあとになってから。なんてこといいやがんだこいつと、半分切れ気味に、応酬する。

 

白熱した会話の中で感じた。

 

この男に、見てもらっていれば大丈夫だと。

 

ベトナムの最後のシーンで、カブに乗る大泉君の背中にかけた「見てるぞ!」

 

どんな暴言を吐こうと、それが暴言であればあるほど、言葉の後ろに、たっぷり水をたたえた大きな甕の中にある何かを感じる。

 

それが何か、一言では言えない。

 

生きていく事に対する根源的な反骨エネルギーなのか、きれいごとは許さない真に誠実であるためが故の厳しさなのか、面白いものを追求するための残酷なまでの洞察と、それをとらえて離さない握力なのか。

 

それは決して、居心地の悪い水ではない。

 

歌い手に対して「早く歌えなくなってよ」と、言うには、言う側にある覚悟がなければ言えない言葉だ。

 

言葉に込めた思いにぶれが少しでもあるならば、たちまちに伝わるし、第一言わなくてもいいのだからそんな事。わざわざ波風たてるような事。

 

女川でのライブ。最初の海ステージでは声の調子もよく、1/6までしっかり声が出た。

 

夕方の山ステージでは、間を置いた事と、いろんな要因が重なって、声が終わってしまった。

 

それでも、あたりまえだけど、終わった声で歌いきった。

 

「俺さ、後ろから見てて思ったわけよ、ああ、この人本気だなって。」

 

とヒゲ。

 

「本気で歌ってんだってね。そしたらもうさ、みっともなかろうがどうなろうがさ、こっちは撮るしかないじゃん。撮るってなったらこっちも本気じゃん。だから歌えなくなれって言うの。」

 

「だからならねえっての。」

 

「そうそう!けたけたけた。だからそれを撮るって言ってんだ。けたけたけた。」

 

なんだろうこの、みなぎる感じ。

 

「2年前の真駒内の手紙は、ほんとにさ、、、すごかったんだよ。あれは、ほんとうに、、、で、こっちもさ、本気な人に対してきれいごとじゃ申し訳ねえと思ってさ。」

 

ステージで、母ちゃんの事を自分から言い出した目をまっ赤にしたふじやんを思い出した。

 

「じゃあみとどけてくれよ。歌えなくなってもずっとうたうからさ。みっともないとこをさ。ちゃあんと。」

 

「けたけたけたけた。」

 

女川の人たちも、この、暴言にこめられた、目の粗いでっかいタオルでくるまれて、ごしごしこすられてるような、ゆるぎのない、なにか、

 

これにくるまれたくて、

 

毎年彼の言葉を待ち望むのだろう。

 

さけのませろ、うまいもんくわせろ、おんせんいれろ、とっととふっこうしろ、まちがわねえわけねえだろ、まちがえろ、そして、すすめ。

 

見てるぞ!

 

甕の中の揺るぎない何かの正体は、わかってるんだけれど、

 

この言葉は使いたくない。

 

俺は歌い手だから。

 

歌で伝える。

 

 

今日の一曲

LOVE   John Lennon