先日のライブではお話しさせていただいたのですが、

私事ですが、

母が、旅立ちました。

 7月17日午前10時30分、ゆっくりゆっくり階段を降りていくように、少しづつ呼吸の回数が減って行き、最期の一息を吐き終わると、安らかな顔で私と姉、2人の子供たちに手を握られながら、旅立ちました。

 最期の10日間は、食事も水も受け付けず、長野の愛和病院という緩和ケアの病院にいて、生前言っていたように、点滴や、心電計や、いろんな管につながれることなく、苦痛だけを取り除いて、母の望み通り、自然な状態を最期まで保ちました。

 「真澄がこっちで幸せに暮らしとるていうとがわかったけん、ほんとにきてよかった。」と繰り返していた母。昨年の秋から、姉の嫁ぎ先の栂池高原の宿に移住していました。

 そこで、冬の忙しいシーズンを宿で働きながら過ごました。本当に充実した日々だったと思います。

 母が亡くなる4日前、これも偶然ではないのでしょう、姉のいる小谷村の農協さんの婦人部の主催のポストマンライブが開かれました。

 母は、このライブを見に行くのを楽しみにしていたそうです。

 結果として、会場で見ることはかなわなかったのですが、このコンサートがあったおかげで、私は、意識のある母と、最期の言葉を交わすことができました。

 病室で、ライブの手紙を聴いてくれていたんでしょう。ライブが終わり、病室に戻ったとたん、母は、涙を流して、「あんたと、真澄が私の子供でいてくれてほんとに幸せだった。ありがとう。ありがとう。」と、繰り返していました。

 気がついたら、母を抱きしめていました。

 やせ細った母の体は、それでも、子供時代にいつも感じていた母の体でした。

 とたんに、幼い頃の記憶が頭ではなく、血の通った体の体験として蘇りました。

 ぬくもりと、においと、肌触り、母の記憶はすべからくフィジカルな関わりとして僕の中にありました。

 おかあさん。と言った僕の声は、5歳の僕でした。

 いったん熊本に戻り、日を早めて16日に再び長野に入りました。台風で次の17日が欠航だったので、予定通りに行動していたら母の旅立ちに立ち会えないところでしたが、不思議な力が働いているようでした。

 18日が東京でERのライブがあって、そこはどうしても外す訳には行きません。他界に立ち会えない覚悟もしていましたが、それもぜんぶわかっていたように、テキパキとスケジュールを調整し完璧にこなしていた生前の母そのままに、僕らのスケジュールを何も乱すことなく、完璧に旅立って行きました。

 ライブがあったので、ギターを持ってきていました。ベッドの脇で、朝花やみみらく霊歌を演奏し、最後に手紙を歌いました。ギターの音色にも歌にも、どこにも悲しい響きはありませんでした。

 最期の息を吐き終わったあと、心電計もないので、傍らにいた看護師さんに確かめると、脈を診て、うなずかれました。

 姉は、ぼろぼろと涙を流して、いつまでも母の手を握っていました。父のときも母のときも、私の何倍も寄り添い、献身的に看病をしていた姉。病院に泊まり込み、いつもいつも母が辛くないか気遣っていました。さんざんたらい回しにあい、自力でこの愛和病院を見つけました。紹介状も何もないのに、訪ねた当日から入ることができました。姉の熱意のもたらした奇跡でした。

 姉の止まらない涙は、母の人生に手向けられた感謝のこもった宝石のようでした。

 私は’、私が受け入れた生命の話をことあるたびに母に話していました。

 「あんたがいつもいつも言うけん、おじいさんも、おばあさんも、お父さんも待っとらす気のしてきた。」

 「のこもまっとるばい。」

 飼ってた犬。母の大好きだった小さな柴の雑種。

 「お母さん、な~んも心配せんちゃよか。みんな待っとらす。」

 「うん、なんもしんぱいしとらん。」

 「よかった。」

 母の家系は医師が多く、母も含め理系の思考な人がほとんどなので、どうかとおもっていたけれど、ごくごく自然なこととして、聴いていてくれました。

 思い出せば、高校生の時からギターを弾き始め、曲らしきものを作り始めた時も、聴かせていたのは母だけでした。全く自信がなかったのと、恥ずかしくて人前で歌うなんてできなかったからです。

 和文タイプの内職をしながら、聴くともなく聴いていた母、そのスタンスが当時の僕にはちょうど良くありがたかったのです。

 自分の一番深いところにある考えや、作品を最初に遠慮なくぶつけられたのは考えてみると、母だけだった気がします。

 いつしか、母と私との間では、死してのち、普通に自分が続いて行くことが前提で話をするようになりました。

 お父さんは、お母さんが一番お父さんらしかて思う年齢や姿で迎えにこらすよ。

 そんなら、50歳ぐらいのころかなあ、、

 おじいさんもおばあさんもはじめおじちゃんも仁科さんも、みーんな大騒ぎで、淳子がんばれ、心配すんなていいよらすどね。

 はじめおじちゃんが、張り切ってみんなば集めよるところが目に浮かぶね。

 2人で笑った。

 その気持ちは母が旅立つ瞬間も変わらなかった。私は肉体からの離脱がスムーズに行くことだけを願い祈っていた。

 それに一生懸命で、悲しむ余裕がなかった。

 義理の兄さえも涙を流している状況で、私だけがケロッとしている。

 (俺は冷たい人間なんだ)と思った。

 いくら死は新たな生への解放だと信じていても、肉親の、それも実の母親の死は、そんな理屈を越えて、感情に訴えるものなはずだ。

 でも、母を思うと、喜びと、輝きのイメージしか浮かんでこない。残された方ではなく、旅立った当人の気持ちに立つと、

満面の笑顔で、喜びに満ちあふれた母の姿しか浮かんでこないのだ。

 私は、悲しむことをあきらめた。

 母がうなずいた気がした。

 次の朝、ライブの当日ホテルの部屋で、母に話しかけた。

 お母さん、そっちは俺の言いよった通りだったね?嘘じゃなかったね?お父さんな迎えにこらしたね?のこは?おじいさん、おばあさんはこらしたね?

、、、、うそならごめん。

 ベッドに腰掛けていた背中がじわじわと温かくなってきた。

 私が知っている最も優しい母の笑顔が浮かんだ。その顔は

 「あんたの言いよった通りだった。ありがとう。」

 とうれしそうにいっていた。

 冷たい私の中の氷が一気に溶けた。

 5歳の幼児のように、泣きじゃくっている自分がいた。

 よかった。

 うれしくてうれしくて

 本当にうれしくて

 泣いた。

 生前の母の苦労に

 大きな大きな

 花が咲いた。

 おかあさん。

 ありがとね。

 幸せに。

 またあおね。

 今日の一曲 

 ふぇん風よ 樋口了一